釣り論 あとがき



釣り論  あとがき


先日、「釣り論」内で紹介した中国のことわざ

1時間幸せになりたいなら、酒を飲みなさい
3日間幸せになりたいなら、結婚しなさい
1週間幸せになりたいなら、牛を飼いなさい
一生幸せになりたいなら、釣りをしなさい


これを「釣り論 総括」では
「目標に向かう過程を楽しむべき」
などと解釈しましたが


全く違う解釈もしてみましょう


非常にいやな気分になると思います
まさにsuimen流「言葉遊び」の真骨頂
こころして読んでください




まずは1行目

1時間幸せになりたいなら、酒を飲みなさい



 誰もが適量を守れれば簡単に幸せになれる魔法の液体です。かつてピラミッド
時代のエジプトでも既にビールがあったそうですから、その歴史は大変古いです。
 中国でももちろん色々なお酒があったでしょう。一日の労働のあとにクッと
飲む酒はまさに幸せだったことでしょうね。
 確かに1時間の幸せを得るためには最高の手段です。




そして2行目

3日間幸せになりたいなら、結婚しなさい



 結婚が幸せなのはせいぜい3日、そんな浅い教訓ではないと思います。
 このことわざがどのくらい昔からある物かはよく知りませんが、流行語大賞
取るほど最近ではないでしょう。となると、今とは状況が全然違うと思われます。
 現代の先進諸国ほど女性の地位が高い歴史は存在しません。所詮、女は「男の
子」を産み、家事をするだけの労働者に過ぎない時代がほとんどです。
 それ以外はただ無駄に飯を食らうだけの存在です。かろうじて「人間」のカテ
ゴリーに入れて貰える程度です。
 今でも女性の地位が非常に低い民族、部族は多数存在していて、女児殺しは頻
繁に行われています。なにも殺そうと思って殺す必要はありません。その多くは
「放置」。女の子を産んでも面倒をみないそうです。女性の地位が低いので良心
咎めないのでしょう。
 労働以外に必要とされるのは飢饉などの非常時の「食料」としてかも知れませ
ん。実際『三国志』には客に妻を食事として振る舞う描写があるそうです。
 現在の世界に目を向けると食人は「蛮行」として禁止しているところがほとん
どですが、その習慣が残っている集落もあるそうです。近づきたくありません。
 3日も一緒にいるとその妻の分、余計に自分が働かなくてはならない現実に直
面するのではないでしょうか。幸せと思ったのもつかの間、厳しい現実が待って
います。
 でもまぁ3日は幸せ。




3行目

1週間幸せになりたいなら、牛を飼いなさい



 妻をめとるよりも牛を飼う方が幸せの期間が長いのが女性の地位の低さを如実
に物語っています。
 この牛は何のための牛でしょうか。もちろん食べるためではないでしょう。そ
れでは1週間も幸せじゃありませんね。これは畑を耕したり、重たい物を運ぶ労
働力です。今でいう「耕耘機」や「トラック」ですね。牛の力を借りることによっ
てどれだけ作業が楽になるか計り知れません。
 結婚をしなくても家事の労働は「奴婢(ぬひ)」と呼ばれた奴隷を買って働か
せればいいだけですが、畑仕事などの重労働をさせるなら牛の方が効率的です。
畑の生産性を上げるために牛が貴重であったことが想像できます。場合によっては
人よりも高価だったのではないでしょうか。
 牛を食べなくても「牛乳」を取ればある種食料としての価値はあると思います
が、おそらく労働力としては「雄牛」が珍重されたでしょう。日本人もそうです
が中国人(漢民族)も牛乳は体質的に弱いそうです。確かに中国と聞いて乳製品
はちょっと思い浮かべません。
 意外に牛乳に弱い民族は多く、遙かに歴史を遡ってネアンデルタール人も成人
すると乳製品は食べられない(飲めない)体質だったそうです。直接の先祖かも
知れませんね、かなり遠いですけど。
 ということは「雌牛」はいりませんね。ここでもメスの価値は低いです。
 やはり労働力として富を手に入れるための雄牛だったのでしょう。畑の生産高
を上げるためにね。牛は権力、富の象徴として大事に扱われたかと思います。
 牛の餌は人間の食べ残しで充分です。食べ残しがなければその辺の草でも何で
も食べさせておけば大丈夫、「掃除屋」としても活躍してくれます。




最後の4行目

一生幸せになりたいなら、釣りをしなさい



 妻をめとって、牛を手に入れたら自分の労働はかなり軽減されます。余暇が生
まれるのです。
 実際はそうではないのですが、釣りはぼんやりと暇そうに見えるようです。
延べ竿に糸を結び、釣り針に餌を付けて、ぼんやりと魚を待つ…。そんなイメー
ジがあるようです。
 こんなことが出来るのは当然その時間を持っている者だけです。忙しい農作業
の傍らとはいかない、まさに成功者のイメージでしょう。現在でいったらクルー
ザーで自分の島に遊びに行くって感じでしょうか。
 釣りをしている間に、市場で買ってきた奴隷達が何頭かの牛を使って畑仕事を
こなし、家では黙っていても妻が家事をこなしている。釣りをしている自分は
夕まずめが過ぎて暗くなったらゆっくり家に帰って酒を飲めばいい。
 釣りをすることが幸せなのではなく、「釣りが出来る生活」を送れることが
幸せ。そういうことでしょうか。「漁」ではなく「釣り」というのが余暇っぽい
ですね。



 他人がどんなに這いつくばって、苦しい想いをしても知ったこっちゃない。自
分は釣りをする。コツコツと地道に努力するという姿は感じられません。
 自分が生き抜くためには、他者の境遇なんて構ってられない。自分の幸せのた
めには、他者の不幸せなんて構ってられない。全ては自分のため、自分本位。
 人の幸せを願っているようには思えない。
 次々と支配者が変わって、その都度体制が変わっていった中国の歴史的背景が
見え隠れしているようです。明日どうなっているかも分からない。
 大事なのは今、現在。万一の時の備えとして、酒を持って、妻と牛を連れてど
こかに移動すればなんとかなる、そんな財産としての価値も感じられます。所詮
「所有物」なんですから。あ、釣り竿も忘れずに…。

 

 幸せになる為の過程、それはさして重要ではなく、むしろ「幸せであること」
その現実の獲得、継続の為にはどうするか。幸せ、労働の軽減の為にはどうする
か。そしてそれは、全て他者の犠牲の上に成り立つ自分だけのために…。


 他者を差し置いてでも自分は幸せになれ


 そういうことではないでしょうか?




どうです?いやな気分になったでしょう?



各方面に問題を起こしそうな記事だこと…